2009年2月22日日曜日

2/22 Today 聖徳太子薨ず(622)

聖徳太子 - Wikipedia: "聖徳太子(しょうとくたいし、敏達天皇3年1月1日(574年2月7日) - 推古天皇30年2月22日(622年4月8日)(同29年2月5日説あり-『日本書紀』))は、飛鳥時代の皇族。本名は厩戸(うまやど)であり、厩戸の前で出生したことによるとの伝説がある。

厩戸皇子は当時最大の豪族である蘇我馬子と協調して政治を行ない、隋の進んだ文化をとりいれて天皇の中央集権を強化し、新羅遠征計画を通じて天皇の軍事力を強化し、遣隋使を派遣して外交を推し進めて隋の進んだ文化、制度を輸入した。仏教の興隆につとめ、『国記』、『天皇記』の編纂を通して天皇の地位を高めるなど大きな功績をあげた。"
いわば当時の改革開放路線の指導者ですな。もちろん既得権側(守旧派)の抵抗はすさまじかった。

守旧派とは物部氏に代表される土着の武装勢力(軍衆)。土着勢力は常に現状維持を望むものなのである。開明派は苦戦するが厩戸皇子の大活躍で土着勢力を撃ち破る:
用明天皇元年(585年)、敏達天皇崩御を受け、父・橘豊日皇子が即位した(用明天皇)。この頃、仏教の受容を巡って崇仏派の蘇我馬子と排仏派の物部守屋とが激しく対立するようになっていた。用明天皇2年(587年)、用明天皇は崩御した。皇位を巡って争いになり、馬子は、豊御食炊屋姫(敏達天皇の皇后)の詔を得て、守屋が推す穴穂部皇子を誅殺し、諸豪族、諸皇子を集めて守屋討伐の大軍を起こした。厩戸皇子もこの軍に加わった。討伐軍は河内国渋川郡の守屋の館を攻めたが、軍事氏族である物部氏の兵は精強で、稲城を築き、頑強に抵抗した。討伐軍は三度撃退された。これを見た厩戸皇子は、白膠の木を切って四天王の像をつくり、戦勝を祈願して、勝利すれば仏塔をつくり仏法の弘通に努める、と誓った。討伐軍は物部軍を攻め立て、守屋は迹見赤檮(とみのいちい)に射殺された。軍衆は逃げ散り、大豪族であった物部氏は没落した。

最近の日本では守旧派の土着勢力の大逆襲が始まっている。近代ニッポンも風前の灯火。平成の聖徳太子がはやく現れないと、やばい。

ところで、一万円札はやっぱり聖徳太子でなくちゃ迫力がない。聖徳太子の一万円札がなくなったあたりから日本の衰退が始まったような気がする。

2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

でも諭吉さんも開明派ですから。いっそこんなのどうでしょう。

1万円 聖徳太子
5千円 福沢諭吉
1千円 平清盛

Unknown さんのコメント...

そう、夏目漱石と樋口一葉は、搾取されっぱなしでお金とは縁のなかった都市貧民(東京都民)ですから、とてもエライ人たちだけれど、お札にするのには向いてないですね。

いっそ、エライえらくないは関係なく、日本一の土地成金の堤義明あたりを一万円札にすると景気もよくなるのかも知れない。田圃を売って40億円貰ったどこにでもいるお百姓さんの写真でもいいか。反面教師としていいでしょう。